明石鯛に優る朝鮮の鯛
たいについて、京都、大阪で、子ども時分から聞きこんでいることは、玄海灘を越してきたたいでなくては美味くないということだ。玄海灘を通過してきたたいには、その骨にイボのような珠みたいなものができていると聞かされた。
私は昭和三年、朝鮮へ古窯跡の探査と、陶器原料の蒐集の目的で渡った。その時季がちょうど五月一日から三十日までであった。行程は朝鮮半島の京城から以東をおよそ全部旅行した。その折、太口面(康津郡)すなわち木浦から少し手前、康津で高麗青磁の窯跡を探って、たくさんの資料を蒐集し、帰途、岩礁の多い海岸に沿って、曲浦渚汀を、順天・馬山・釜山方面へと巡遊した。ところが、これらの地方で、はからずも非常に美味いたいの刺身をふんだんに食わされた。そのたいの刺身は、自分が今までに味わったことのある明石だいよりは、はるかに――とも言えるほど美味しいたいであった。
その後も、到るところで、そのたいを飽かず賞味して、感心させられることしばしばだった。実際、その辺に移住してきている内地人や、地元の人たちだけに食わしておくにはもったいないほどのたいであった。内地では容易に舌にのらないほどの逸品だからである。その美味さは今日まで忘れがたい。
元来、朝鮮は鳥でも魚でも一体に不味いところで、ことに京城にいた時代など、一度だって美味い魚を食ったことがなかった。昭和三年の朝鮮滞在中もたべものに難儀した。それだから魚らしい魚などないものと決めてかかっていた。馬山あたりで美味いたいが獲れるということなど、かつて耳にしたことがない。それがどうだろう、全く偶然、その美味いたいに、はからずも出会わしたものだからたまらない。意外な掘り出しものに驚いた。
そこで、このすばらしいたいが、一体どこへ売られて行くのか調べてみると、出漁先沖合いに下関方面から買い出し船がやってきて、その多くは内地へ運んで行くのだそうだ。
話は別になるが、たいについての思い出のひとつに、かつて北陸の山代や山中の温泉から金沢地方にかけて九谷焼き研究のため、久しく滞在していたころのことである。元来、北陸というところは、いわし・たら・なまこ・かに・甘えびなどの特産物は別として、一般魚類は不味いものばかりだ。特にたいなどは南日本海に比して問題にならないほどひどいものだ。ところが、加賀の海で五、六月のころ、土地でやかましく言う「たい網」という特種の漁法によるたい漁に遭遇することがある。この網で獲れたものは、明石だいとほとんど同じもので、事実美味いのに驚かされる。この地方で、ふだん獲れるたいは、明石のまだいとは比較にならない劣等品だ。それなのに、この季節にかぎるたい網のたいは、全然明石だいと区別がない。
この地方の人が、たい網のたいを食って「明石だいよりはるかに美味い」と誇って関西人を怒らしたと言うが、その自慢もあながち否認できない。
どういうわけで、北陸にこんな美味いたいが、この季節に獲れるかと不思議に思ったが、ようやくそのわけがわかった。つまり、四、五月という時節は、本場の明石だいはもとより美味いときなので、それらをいろいろ思い合わせてみて、たいが玄海灘を越えてくるということは、岩礁や島嶼が蜂の巣のように存在する朝鮮南端に発育することだ。その巣窟をば、彼らは産卵、あるいはなにかの作用で大部分が東方日本の方へ向かって遊弋し、その途次、すなわち玄海灘を押し切って東漸し、大多数が瀬戸内海に入り、または九州、土佐あたりへも分れる。なお他の一部が同時に裏日本へもまわってきて、ふだんは影だに留めないものが、その産卵期だけ、たい網に入るのだろう。それで朝鮮南端、瀬戸内海、北陸、山陰、みなこの季節は同じ滋味を有しているのではないか。
毎年、北陸のほうでは、この優れたまだいを秋までかかって獲り尽すが、なお獲り洩れがあって、季節外にまだいがないわけではないが、すこぶる不味い。あるにはあっても、それはすなわち長汀白砂、岩礁少なく、好餌の乏しい関係と、生殖の関係などで、タネはいいものの、たいも生活状況の変調のために漸次不味いものとなり終っているようだ。
自分は今一度、朝鮮にそのたいを食いに行ってみたいと思っている。順天・馬山あたりのものは実に忘れがたい。
ふつう一般には朝鮮だいと言うと、トロール船漁でうすっぺらな赤さをした不味いものという概念のみあって、ついにその朝鮮にべらぼうによいたいが獲れるというようなことは聞かなかったが、バカにはならない。
鮎の食い方
いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。東京の状況がそうさせるのである。仮に生きた鮎が手に入るとしても、素人がこれを上手に串に刺して焼くということはできるものではない。
鮎といえば、一般に水を切ればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、鮎は俎上にのせて頭をはねても、ぽんぽん躍り上がるほど元気溌剌たる魚だ。そればかりか、生きているうちはぬらぬらしているから、これを掴んで串に刺すということだけでも、素人には容易に、手際よくいかない。まして、これを体裁よく焼くのは、生やさしいことではない。
もちろん、ふつうの家庭で用いているような、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭を焦がして、真黒にしてしまうのなどは、せっかくの美味しさを台なしにしてしまうものだ。いわば絶世の美人を見るに忍びない醜婦にしてしまうことで、あまりに味気ない。
こういうわけで、家庭で鮎が焼けないということは、少しも恥ずかしいことではない。見るからに美味そうに、しかも、艶やかに、鮎の姿体を完全に焼き上げることは、鮎を味わおうとする者が、見た目で感激し、美味さのほどを想像する第一印象の楽しみであるから、かなり重要な仕事と考えねばならぬ。だから、一流料理屋にたよるほかはない。
いったい、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においては、ことさらに形態美を大事にすることが大切だ。
鮎は容姿端麗なさかなだ。それでも産地によって、多少の美醜がないでもない。
鮎は容姿が美しく、光り輝いているものほど、味においても上等である。それだけに、焼き方の手際のよしあしは、鮎食いにとって決定的な要素をもっている。
美味く食うには、勢い産地に行き、一流どころで食う以外に手はない。一番理想的なのは、釣ったものを、その場で焼いて食うことだろう。
鮎は塩焼にして食うのが一般的になっているが、上等の鮎を洗いづくりにして食うことも非常なご馳走だ。
私がまだ子どもで、京都にいた頃のことであった。ある日、魚屋が鮎の頭と骨ばかりをたくさん持ってきた。鮎の身を取った残りのもの、つまり鮎のあらだ。小魚のあらなんていうのはおかしいが、なんといっても鮎であるから、それを焼いてだしにするとか、または焼き豆腐やなにかといっしょに煮て食うと美味いにはちがいない。
それにしても、こんなにたくさんあるとはいったいどういうわけだろうと、子ども心にふしぎに思って聞いてみた。すると、魚屋のいうのには、京都の三井さんの注文で、鮎の洗いをつくったこれはあらだという。
私はずいぶんぜいたくなことをする人もいるものだなあと驚き、かつ感心した。それ以来、鮎を洗いにつくって食う法もあるということを覚えた。しかし、その後ずっと貧乏書生であった私には、そんなぜいたくは許されず、食う機会がなかった。それでも、今からもう二十五年も昔になるが、遂に私もこの洗いを思う存分賞味する機会を得た。加賀の山中温泉に逗留していた時のことである。
山中温泉の町はずれに、蟋蟀橋という床しい名前の橋があり、その橋のたもとに増喜楼という料理屋があった。鮎とか、ごりとか、いわなとか、そういった深い幽谷に産する魚類が常に生かしてあって、しかも、それが安かった。鄙びた山の中の温泉には、ろくに食うものがないから、飯を食おうと思えば、どうしてもそこへ行くよりほかはなかった。
そんなわけで、私はよく増喜楼へ人といっしょに食いに行った。そうした渓魚を食っているときに、ふと子どもの頃知った鮎の洗いのことを思い出した。鮎も安かったからではあるが、さっそく鮎の洗いをつくらして食ってみた。驚いた。とても美味いのだ。なるほど、三井が賞味したわけだと合点した。
美味いに任せて、その時はずいぶん洗いを食った。そうして人が訪ねて来るたびに、増喜楼へ案内して、洗いをつくらせてはご馳走した。ところが、習慣とは妙なもので、たいがいの人は、あっさり食わない。頭はどうしたとか、骨を捨てちゃったのかと心配する。当時、京都相場なら二円くらいもする鮎が、一尾三十銭ぐらいで始終食えたのだ。それが洗いにすると、一人前が一円以上につく。鮎をそんなふうにして食っては、なんとなくもったいないような、悪いような気がして、美味いとは知っても、勇気の出にくいものである。
しかし、所を得れば、洗いは今でもやる。この鮎の洗いからヒントを得て、私はその後、いわなを洗いにして食うことを思いついた。
いわなは五、六寸ぐらいの大きさのものを洗いにすると、鮎に劣らぬ美味さを持っている。
鮎はそのほか、岐阜の雑炊とか、加賀の葛の葉巻とか、竹の筒に入れて焼いて食うものもあるが、どれも本格の塩焼きのできない場合の方法であって、いわば原始的な食い方であり、いずれも優れた食い方ではあるが、必ずしも一番よい方法ではない。それをわざわざ東京で真似てよろこんでいるものもあるが、そういう人は、鮎をトリックで食う、いわゆる芝居食いに満足する輩ではなかろうか。
やはり、鮎は、ふつうの塩焼きにして、うっかり食うと火傷するような熱い奴を、ガブッとやるのが香ばしくて最上である。
お茶漬けの味
お茶漬けの話にかぎらないが、料理というものは、財力豊かな人のものと、財力不自由な人のものとでは、常に天と地ほどの相違がある。しかし、財力豊かで、刺身よかれ、牛肉よかれと、どんな材料でも、手に入れることに少しも不自由のない人が、贅沢料理に飽きて、簡単な美味いもので食事がしたいという場合がある。これは体内にお医者さまの言う栄養が充ち満ちて、生理上、栄養が不必要になった時だ。かような時、茶漬けで飯が食いたいということになる。
だが、ただの茶漬けという分には差支えないが、贅沢なものの、特にもの好みして、なにか美味い茶漬けが食いたい意味で、茶漬けを要求する場合は、単にさけの切り身というわけにもいかないだろう。さけの切り身と言っても、いろいろあるので、ほんとうの新巻じゃけが手に入れば茶漬けも甚だ結構だ。しかし、近頃はそう特殊の新巻も手に入るまい。そこら辺の店先で手に入れるとなると、さけは美味いもの食いには承知ができず、「ほかになにか……」ということになってくる。
沢庵の美味いのはないか、干ものの美味いのはないかと詮議だてすることになる。あるいは、たい茶漬けにしようか、という具合に金のかかる方法も考えられる。そういう手は財力が豊かでなければ自由にならない。ゆえに料理は貧富の差で、さまざまの答えが出てくると言えよう。
昔から婦人雑誌やラジオなどに出てくる料理研究家と称する人々の発表する料理は、贅沢料理と言うよりも、大衆的であることを根本精神にしたものだから、贅沢者の参考にはなるまい。
そこで、私の語ろうとしているのは、茶漬けにかぎらず、(反感を持たれるかも知れないが)贅沢料理の話である。通の通たる人のよろこぶ話だ。現今の青年子女は、「金ばかり高くてそんなもの」と言うであろう。
そこでもうひとつ、料理は貧富の差のみではなく、年齢の差で好みが変ることも考えてもらいたい。従って、一家族全部が感心するような料理はなかなかなく、年齢を分けて嗜好を合わせなくては満足がいくまいと思う。いわんや、財力の乏しい人では、値段の高いふつう聞きなれない料理には賛成できないであろう。
美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。しかし、だからと言って、費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。食通と言われる人でも、種々の段階があるくらいだから、一般ではなおさらである。結局、これは書画の場合と同じように、分る人のみに分るのであろう。
さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。
なんにしても食物のことは、自分の肉体や精神をつくってくれる根本問題であるから、その根本義を考えて、美味いものを食べればよいのである。よくよく考えてみれば、人の食物に対する要求は、結局肉体がその食物を要求しているので起こると言える。
ところで、その要求だが、ふだん値の高い食物を食いなれていなければ、味を知らないので、高いものを要求しないが、値段の高い食物で育ちつけた人は、そのほうが体に合うところから、美味い高価なものを要求する。たとえば、東京ではまぐろに高い金を出すが、食い道楽で有名な大阪の人たちは、まぐろに金を出さない。これは、昔から大阪にまぐろの一級品が運ばれないので、まぐろの味を知らないからである。
また食いものが、美味いものだけ食えるか、不味いものしか食えないとかいうのは、その人の育った環境のせいであるから、これをいたずらに曲げてはならない。分相応でなければならぬ。もしそうでなければ、食いものの話はできない。口福は得られないということになってしまう。前置きはこのくらいにして、実際の話に移ろう。